OVERDRIVE『キラ☆キラ』 感想 ネタバレ!

感想というよりは、きらりEDについての覚え書きです。自分の中では一定の結論に達しているのですが、大変読みにくく理解しにくいかと思います。あと、ネタバレ全開です。

■ストーリー
受験勉強にも身が入らず、アルバイトに明け暮れ無感動に毎日を過ごす「前島鹿之助」は、無敵の貧乏少女「椎野きらり」と出合ったことから、パンクバンドを組むことになる。それも、女装してガールズバンドを。
家庭の不和を抱える幼馴染「石動千絵」、病弱なご令嬢「樫原紗理奈」らと組んだバンドは、文化祭で大成功をおさめる。そして、インディーズの雄「STAR GENERATION」に認められたことからライブハウスに出演、さらにはオンボロワゴンに楽器を積み込み全国ライブ行脚に出ることになる。ロックの夏が始まる、そして夏が終わったとき……。



「きらりルート」、とくに最後にプレイすることになる最終ルートは、ドストエフスキー罪と罰』をモチーフとしています。きらり一家の境遇やきらりの「就職」、そして鹿之助の果たす役割、このあたりは、はっきりと『罪と罰』をもとにしていると言えるでしょう。

きらり=ソーニャ(家族を救うため娼婦となる。アルコールに溺れる父、幼い弟妹などの設定も共通)
鹿之助=ラスコーリニコフ(良いことだと信じながら殺人(見殺し)を犯す)

また、きらり最終ルートにおいて、自己犠牲と罪の告白というテーマが現れるのも、『罪と罰』から。プロットを下敷きにしている以上、当然ではありますが。
ただし、『罪と罰』をモチーフとしているということを、それほど重くとらえる必要もないかと思われます。設定が共通しているからといってラストまで同じだとは限らない、むしろ、はっきりとオマージュを打ち出しているからこそ、異なったメッセージが込められていると思われます。
言うならば、ドストエフスキーに対するアンサーソングになっているわけです。

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テニスでの挫折のエピソードは、鹿之助が自分の幸せにも不幸せにも興味がもてない、人格障害的な要素を持っていることを示しています。一時的に掴んだキラキラしたものに固執し破滅していく、そうすることしかできない、そんな人間。
きらりBADルートは、この鹿之助の病巣をより強烈なカタチであぶり出し、さらにその苦しみを超克し自分の中にキラキラしたものを見つけ出す話になっている。
そんなことを考え始めると、物語前半や他ヒロインルートの鹿之助も、楽しそうな幸せそうな演技をしているだけで、アパシーに囚われたままなのではないか、なんてふうにも思えて来ますが、これはさすがに穿ちすぎでしょう。
千絵ルートや紗理奈ルートでは、ヒロインと触れあい、他者を愛することによって問題を回避できたということなのだろうか。
鹿之助は、他者の内の「キラキラしたもの」を肯定し、それを助けることで生きていく。そして、その「キラキラしたもの」を体現するヒロインを失ってしまえば、BADルートのように、その脆さが露になってしまう。

苦しみばかり求め、幸せを掴めない鹿之助の名前が、

願わくば、我に七難八苦を与えたまえ

という台詞で有名な山中鹿之助から取られていることも、偶然ではないでしょう。
自己犠牲というテーマが、ゲームの随所に見え隠れしているのだから。

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このゲームで一番不思議なのは、きらり最終ルートで、「聖女の無償の愛と自己犠牲によって救済され、魂の高揚を得る」という、流れからして必然的とも言える、そしていかにも瀬戸口廉也らしい、『SWAN SONG』と同質のエンディングが描かれなかったこと。
この最終ルートでは、鹿之助がきらりに罪を告白する公園のシーンから、突然描写が他人事のようになり、きらりの想いも鹿之助の想いも語られることはない。ただ、きらりがシンガーとして成功し、鹿之助との関係も続いているという事実が分かるだけ。
これについては、紗理奈ルートが補助線となりうるかもしれない。
樫原一族の悲劇は、モチーフ的にきらりルートと共通する部分が多々あります。

紗理奈の父(健一)=きらりBADルートの鹿之助(恋人を失い、希望を見失う)
紗理奈の祖父(正次)=きらり最終ルートの鹿之助(善意から他者を見殺しにする)
紗理奈の母(康江)=きらり

このように、紗理奈ルートはきらり2ルートの縮図のような構造を持っています。
ここから、きらり最終ルートを解釈しようとすると、紗理奈ルートのラスト、「祖父が救済されたかに見えるシーン」が問題となってくる。この老人との渓流釣りは、いわゆる名シーンってやつで、ついつい音楽と文章の力で押し切られてしまいそうになりますが、祖父が鹿之助に心を開いた理由は、はっきりとは描かれていない。正次老人にとって、紗理奈と鹿之助を認めることは、かつての自分、ひいてはこれまでの人生すべてを否定すること。しかも、2人を認めた先に待っているのは、かつて見殺しにした夫婦への悔恨。簡単に認められることではない。
しかし、紗理奈が指摘するように、老人はすでに息子夫婦を認めている。

……お爺様が、お父さんたちのことを喋るときは、いつも『あいつ』じゃなくて、『あいつら』なんです。わかります?
『キラ☆キラ』

鹿之助と紗理奈による粘り強い説得がきっかけになり、正次老人は、罪を受け入れる。鹿之助が、「無償の愛と自己犠牲」を発揮する側に回ることにより、絶望にとらわれた老人に罪を償いながら生きる勇気を与え、かつての感情を取り戻させた、と言うこともともできるでしょう。
きらり最終ルートも、これと同じ構造なのだろうか? 自己犠牲と罪の意識からの救済というテーマについては共通のものと見ることができる。しかし、単純に「きらりの献身によって鹿之助が救われた」というお話ならば、あのような、プレイヤーを突き放すような演出にする意図が見えない。

※ ※ ※

瀬戸口廉也が、これまでの作品で繰り返し用いてきたイメージとして、「キリスト教」がある。
キリスト教的な考え方で行くならば、人間の力では罪を償うことはできない。人の罪を贖うことができるのはただキリストのみ。

鹿之助の告白を聞き、突然、それまで否定してきたデビューを受け入れるきらり。
彼女は、「みんなが元気になるような歌」を歌いたいと言う。
これは、幼少期から求め続けた普通の幸せを、自分の幸せを諦め、罪をおかしながら生きる「みんな」のために生きるという宣言だろう。さきほど持ち出した、キリスト教の例で言えば、人であることを辞め、聖者となる道を選んだ、ということになる。
きらりは、歌を通じて人間社会の罪を贖い、鹿之助はきらりの一部として生きる。2人が一心同体となり、罪を贖う。だから、ラストシーンでは、2人の人としての喜びや悲しみは描かれない。
無償の愛をもってしても、罪は消えない。ただ贖い続けることができるのみ。そんな、わりと救いようのないラストだったのではないだろうか。

※ ※ ※

ラストの描写が異常なまでにあっさりしていることについては、もうひとつ理由がある…と思う。それは、『罪と罰』の対比。

罪と罰』のエピローグは、めったやたらと歓喜に満ち溢れている。

 二人は何か言おうと思ったが、何も言えなかった。涙が目にいっぱいにたまっていた。二人とも蒼ざめて、痩せていた。だが、そのやつれた蒼白い顔にはもう新生活への更正、訪れようとする完全な復活の曙光が輝いていた。愛が二人をよみがえらせた。二人の心の中には互いに相手をよみがえらせる生命の限りない泉が秘められていたのだった。
 二人はしんぼう強く待つことをきめた。彼らにはまだ七年の歳月がのこされていた。それまでにはどれほどの堪えがたい苦しみと、どれほどの限りない幸福があることだろう! だが、彼はよみがえった。そして彼はそれを、新たに生まれ変わった彼の全存在で感じていた。では彼女は――彼女は彼の生活をのみ自分の生きる糧としていたのだった!
ドストエフスキー罪と罰』下巻 新潮社文庫(工藤精一郎訳)p.483

しかし、正直なんでこんなにハイテンションなのか、罪を犯したラスコーリニコフがなぜ救済されたのかは、正直よくわからない。あまりちゃんと読んでないせいもあるのだろうけど、まったく分からないと言ってもいい。いや、ソーニャとの愛だってのは書いてあるから分かるのだけど、それ以上はさっぱり。刑が思ったより軽かったからか?(違う…と思う)
最終エンドにおいて、心理描写を排除し、むしろバッドエンドのような寂寥感を演出して見せたのは、この『罪と罰』で描かれる一種異常なまでの高揚に疑問を呈するためではないだろうか。罪から、また罪の意識から逃れることの難しさを強調するために、むしろバッドエンドのような寂寥感を演出して見せた、そんな風に感じられた。
つまり、あのラストシーンには、『罪と罰』へのアンチテーゼが込められている…のかもしれない。ロシア文学に造詣が深いわけでもないので、曖昧にさせてください。
とにかく、『罪と罰』のエピローグと『キラ☆キラ』のそれは、プロット的には同じような構造持ちながら受ける印象が180度違う。この落差は、何かの意図が働いた結果のように感じられます。

ドストエフスキーやらキリスト教やらで、きらりエンドに一応の意味づけを行ってみました。しかし、もちろん、上記のような図式化・モチーフの解釈は、作品の根幹にはなんらかかわるものではありません。そこは、プレイして感じたことがすべて。
内容をこのような短文にまとめてしまうことができるのなら、ゲームをプレイする意味もなくなってしまうでしょう。